陸軍特攻 誠 第百十九飛行隊

出撃一時間半前の写真

昭和二十年四月二十二日午前八時半頃


台湾桃園飛行場で。

少年飛行兵出身の十四人。

全員十八歳から十九歳の若者



真悟の時事通信 (平成24年9月9日号)

身は大空に散華しても笑顔は生きている

No.774 平成24年 9月 9日(日)

昨日から、私のホームページの表紙に、飛行服を着た十四名の若者が大らかに明るく笑っている写真を掲載した。

陸軍特攻誠第百十九飛行隊出撃直前の写真だ。

諸兄姉、どうか、クリックして写真を拡大し、彼らの笑顔を見ていただきたい。彼らは、少年航空兵出身の十八歳から十九歳の十人と学徒出陣の四名で、この写真に笑顔を残してから一時間半後の、昭和二十年四月二十二日午前十時ころ、台湾北部の桃園飛行場から沖縄本島方面に特攻出撃していった。

彼らは五百キロ爆弾を搭載して沖縄本島周辺の敵艦に突入し、敵巡洋艦と貨物船を各一隻を撃沈した。

本年八月、東京で畏友の古賀俊昭東京都議会議員と久しぶりに懇談していた際、古賀俊昭さんが手帳から取り出し、「この笑顔を見てほしい」と差し出したのがこの写真だ。 写真を手に取って、深い感動を受けた。丁度行われていた甲子園の高校野球の球児たちよりも充実した底抜けに大らかな笑顔だ。

笑顔は生きている。英霊が甦っている。涙があふれてきた。

その後、古賀俊昭さんは、この写真と写真を紹介した平成十七年一月十五日の産経新聞のコピーを堺の事務所に送ってくれた。 以後、この写真をいつも持っている。八月二十一日からの台湾行にも持参し、関西空港から彼ら十四名が六十七年前に特攻出撃していった台湾の桃園空港に降り立った。

この写真は、台湾から日本に帰還した陸軍整備隊長の関忠博さんが撮影し靴底に隠して検査をすり抜けて持ち帰った。そして、六十年後、産経新聞に「戦後六十年間、私は、彼らに生かしてもらってここまで元気でやってこられたという思いでいっぱいです。

せめて隊員の家族や親族にこの写真を渡したいと考え、行方を捜しています。無職関忠博(八十四歳)」と投稿され、平成十七年一月十五日の産経新聞に掲載された。

  記事によると、関さんは航空機の整備隊長としての指導のかたわら、出撃する隊員たちと日々語り合ったという。関さんは、彼らには不思議なほど悲壮感はなく、全員が実に冷静に死について考えていた、出撃までは軍規の拘束を受けない自由が与えられたが、隊員たちは、あまり外出せず、家族や故郷のある日本を守るためには、「いまここで死ぬのが自分にとって最高の生き方」と語っていたという。

そして、関さんは、出撃の四月二十二日の朝八時半ころ、桃園飛行場の滑走路近くで隊員たちがそろったときにこの写真を撮影した。死を前にしても、全員が満面の笑みをたたえていたのが印象的だったと関さんはいう。

終戦後、関さんは収容所生活を経て、昭和二十一年三月に復員するが、復員船の出る基隆港では写真や光学機械や時計を持ち帰ることが禁じられた。しかし、関さんは、「この写真だけは何としても残したい」と思い、靴の底に隠して検査をすり抜けて日本に持ち帰った。

昭和二十年四月二十二日、朝八時半、十四名の若者は、祖国を守るために「今ここで死ぬのが自分にとって最高の生き方」と得心し、何の影もない充実した満面の笑顔を残して数時間後に肉弾となって散華していった。

この写真を映した関さんは、この笑顔を何としても日本へ持ち帰ると工夫し、持ち帰ってくれた。 そして、彼ら十四名は、この八月、私に笑顔を見せてくれたのだ。

我が国を取り巻く内外の情勢は、まことに厳しい。内は「劣化、自己喪失、日本が日本でなくなる」危機が増大し、外は日清日露戦役前夜の如き軍事攻勢を受けつつある。 この時に、彼ら十四名は、「君らしっかりせよ」と甦り、笑顔で我らを励ましてくれている。

よって、魂を励まされた私は、「国のため今死ぬのが最高の生き方」と確信した魂の不滅と連続性を信じ、十四名の隊員と、日本にこの写真を持ち帰ってくれた関忠博さんに深謝して、 彼ら十四名の特攻隊員の笑顔の魂に励まされることがすなわち「日本の再興」と「日本人としての人生の充実」に至る道であると確信し、ここに彼らをご紹介する。

文責:西村真悟




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